楽器/インストゥルメントとしてのスタジオの歴史: パート3 ― 未来からの共鳴
「楽器/インストゥルメントとしてのスタジオの歴史」パート1およびパート2では、録音された音を用いた作曲の最古の先駆者たちに目を向け、現代のサンプリング、ルーピング、シーケンシング・テクニックの先人たちの軌跡を辿りました。物語はさらに続きます。ダブ、クラウトロック、ディスコの出現、それまで考えられていた楽器の可能性を拡大し続けている数名のクリエイティブなプロデューサーに密接に関係するさまざまな音楽スタイルについて紹介します。
キング・タビーとダブの誕生
60年代末から70年代初頭に登場したダブ―展開するサウンド・マニピュレーション手法が特徴の音楽スタイル―は、レゲエ音楽を大きく変えるものとなりました。ダブ・ミュージシャンは、ディレイ、リバーブ、フィルター、テープマシンを活用(乱用)し、予め録音しておいたトラックからドラム、ベース、一部のキーボードやホーン・セクション、ボーカルやメロディの断片を除く全てを取り除き、これらの骨子を用いて全く新しい作品へと変化させます。ある意味ダブは、既存の素材を取り上げ、全く新しい作品を生み出す「リミキシング」の誕生を記すものです。(サウンドは必ずしもそうではないにしろ)アプローチとしてのダブは、現代の音楽制作のDNAの重要な一部分となっています。ヒップホップからテクノ、グライムやジャングル、ドラムンベース、(おそらく最も明白に)ダブステップまで、その後のさまざまな音楽ジャンルに少なくともいくらかのダブの影響を見ることができます。
ジャマイカのダブ・ムーブメントの最前線にいたのが、キング・タビーです。オズボーン・ラドックとして1941年に生まれたタビーの家族は、50年代初頭にキングストン中心部からキングストン西部の高級住宅街ウォーターハウスへと引っ越します。その家が、のちにタビーが伝説となるスタジオを設置する場所となりました。10代にエレクトロニクスへの傾倒を見せたタビーは、アップタウン・キングストンのCollege of Arts, Science and Technologyで学びました。当初、タビーはそこで学んだ技能を元に、ジャマイカ各地のビジネスビルや住居の電力を安定させるための変圧器の修理を行う仕事を見つけましたが、程なく、その知識を地元のサウンド・システムにも活用し始めるようになります。1958年頃、タビーは独自のHometown Hi-Fiサウンド・システム運営を始め、アメリカン・リズム・アンド・ブルースのプレイで知られる存在となります。サウンド・システム文化の需要の高まり、またHometown Hi-Fiの競合相手をリードしようと、タビーは、他のシステムに勝るサウンドを生み出すシステム構成を次から次へと考案し、そして―伝説のとおり―リバーブを使用した最初のサウンド・システムを生み出しました。
サウンド・システムからの自然な成り行きとして、その後タビーはジャマイカ音楽活動に並行して自身のスタジオを設立。ただしそこでの初期の活動内容についてはあまり知られていません。その後、タビーは2トラックのテープマシンを入手し、それをサウンド・システム用の「ヴァージョン」ミックスの制作に使用し始めます。ヴァージョンとは録音されたボーカル曲の変化形で、さまざまなDJやサウンド・システムの代わりにインスト・テイクやMCによるトースティングが使用されます。
1971年、タビーは、当時ジャマイカで最も最先端の設備を備えていたキングストンのスタジオDynamic SoundsからMCIミキシング卓を譲り受けます。このミキシング卓は、ドロミリー大通り18番にある彼の自宅のフロント・ルームに持ち込まれると、タビーの制作手腕を大幅に拡張させることとなります。技術的守備範囲が広がったタビーは、ヴァージョンの各パートをルーティングし、大量のリバーブやディレイにかけたり、より正確で滑らかなコントロールでフィルターやミュートできるようになりました。ダブはこうして誕生したのです。初期の主な例には、ジェイコブ・ミラーの『Baby I Love You So』のリワークがあります。タビーの手にかかれば、ディレイのリズム、オーガスタス・パブロのメロディカ、そして控えめながら正確に使用されたディレイにより、まあまあのトラックが数段強烈な作品へと生まれ変わるのです。
程なく、タビーのスタジオは地元ミュージシャンの注目を集めるようになります。そういったミュージシャンには、オーガスタス・パブロ、ナイニー・ジ・オブザーバー、キース・ハドソン、ヤビー・ユー、そしてコラボレーターでもありライバルでもあるリー・スクラッチ・ペリー(彼についてはのちに詳しく紹介します)など、のちにダブ界の重要人物となる面々も含まれていました。自宅のバスルームを改装したボーカル・ブースを設置したタビーのスタジオは、リズム・トラックにボーカルを加えるための場所となりましたが、さらに重要なことに、このボーカル・ブースにより、スタジオはこういったアーティストがそれぞれのダブ・ヴァージョンのミックスに訪れる場所となりました。そういったミックスは、タビー自身により行われることもしばしばでした。(ただし、ここで触れておかなければならないのは、タビーは常々、パット・ケリー、フィリップ・スマート、プリンス・ジャミー・アンド・サイエンティストから成るエンジニア・チームの手を借りて作業を行っていた点です。)タビーのスタイルの特徴―広さを感じさせるリバーブのうねり、ざわめきのようにフィードバックするディレイ、極端なフィルタリング、フェージング、モジュレーション―は、ダブというジャンルの主柱となりました。
悲しいことに、キング・タビーの人生は、1989年に何者かに襲われ撃たれるという悲劇的な終焉を迎えます。あまりにも短い生涯となってしまいましたが、タビーは非常に多作なアーティストで、レゲエを変えたのみならず、70年代から80年代に生まれ現在へと続くプロダクション・ベースのジャンルに強い影響を与え、伝説的存在となりました。誇張ではなく、ダブの登場はその後の音楽に大きな影響を与え、音楽と制作の関係を根幹から変えるものとなり、現代の音楽制作のあらゆる側面にその足跡をみることができます。
リー・スクラッチ・ペリーの自由な発想
キング・タビーがダブの発明者であるとすれば、リー・スクラッチ・ペリーは、ダブにユーモアと神秘主義の要素を注入しながら、50年以上のスタジオ・ワークにわたって独自のスタイルを構築し、その限界を最大限まで広げた功労者です。
ペリーは1936年にジャマイカの農村に生まれ、キングストンに移った後、1950年代に音楽のキャリアをスタートさせました。まずはスカ・アーティストのプリンス・バスターの元で働き、クレメント・コクソン・ドッドのダウンビート・サウンド・システムをレコードを販売していました。まもなく、ペリーはのちに伝説となったドッドのスタジオ「スタジオ・ワン」でグループのプロデュースやレコーディングを行うようになり、そこで数々のヒット曲に関わります。1968年、ペリーはスタジオ・ワンを去り、独立レーベル「アップセッター」を設立します。レーベル初のシングル『ピープル・ファニー・ボーイ』は、商業的な大成功を収めただけでなく、レゲエというジャンルを速いペースのスカ・ビートからよりゆっくりと軽やかでベースにフォーカスを当てたバックビート(のちに「リディム」として知られるようになる)へと変化させ、レゲエの新革命の幕開けを示すレコードとなりました。
70年代初頭に、ペリーは、キング・タビーが制作している驚異的なダブの実験的作品を耳にし、自身のスタジオ知識と制作の技能を同じようなエフェクトに使用できると考えました。それ以降、ペリーは膨大な量のダブ・ミックスを発表し、1973年に自身のスタジオ『ブラック・アーク』を設立するに至りました。独自のスタジオを手に入れることで新たな芸術的自由を得たペリーは、機材は最先端にはほど遠いものであったにもかかわらず、キングストンの自宅の前庭に建てた小さなスタジオで魅力的で表現力豊かなトラックを難なく生み出していくのです。
ブラック・アーク設立直後の主な機材はTeacの4トラック・テープレコーダーで、他にはAliceのミキシング卓、Grampianのスプリング・リバーブ、Echoplexのテープ・ディレイがあり、その後Roland Space Echo、Mutronのフェイザーが加わりました。これだけのわずかな機材が、ペリーの創意に組み合わせられ、マックス・ロメオ・アンド・ジ・アップセッターズの『War Ina Babylon』、ザ・コンゴの『Heart of the Congos』、スーパー・エイプ、クローク・アンド・ダガー、ブラックボード・ジャングル・ダブのアルバムなど、ダブやレゲエの名作が数々生まれています。
しかし、1978年末までにペリーが限界に達し、ブラック・アークの終焉が始まります。伝えられるところによると、ペリーはまず引きこもりがちになり、その後機材を破壊し始め、最後にはスタジオが謎の火事により焼失しました。もちろん、ペリーの音楽活動はこれで終わりではありませんでした。その後数年にわたり、ペリーは流浪のミュージシャンとなりますが、スイスにもうひとつのスタジオ、Secret Laboratoryを設立するに至ります(残念ながらこのスタジオも昨年末に火事で焼失しています)。実のところ、ペリーは活発なプロデューサーとしてこれまで50年以上にわたり活動を続けており、自身のダブ・スタイルを進化させ、コラボレートし、あらゆる新しいテリトリーの音楽を探求し続けています。その一方で、彼の圧倒のバック・カタログは、無数のリイシューやアンソロジーにより、新しい世代のプロデューサーたちに今も届けられています。ブラック・アーク焼失後、ペリーが活動を停止していたとしても、それは変わらなかったことでしょう。ペリー、タビー、そして同国のダブ・ミュージシャンは皆、レゲエを変化させ、その過程において、その後数十年にわたってのプロデューサーのオーディオとの関わり合い方の基盤を築いたのです。
プロデューサーの定義を変えたコニー・プランク
24トラックのテープマシンの出現、さらに洗練されたスタジオ・ツールの誕生、そして70年代から80年代にかけて始まったプロフェッショナル・レコーディング・スタジオの増加により、音楽制作の新時代が始まりました。巨大なミキシング・コンソールにより、さらに多くの楽器やサウンドを組み合わせたり、分離したり、オーバーダブすることが可能となる一方、さらに高度なディレイ、リバーブ、エフェクトを組み合わせて、楽曲に必要なリアルなサウンドや人工的な可聴空間を作成することが可能になりました。実質上、このオーディオ・ツールの急増は、スタジオが作品作りのツールとなる発端となりました。
しかし、この新たな可能性をさらにフルに活用した人たちがいます。そんな先見の明を持つ人々のひとりが、コニー(コンラッド)・プランクです。ドイツ人エンジニアでプロデューサーの彼は、クラフトワーク、カン、ノイ!、クラスター、ウルトラヴォックスなど、クリエイティブなサウンドで新しい道を切り開いた数々のグループと仕事をしてきました。ケルン近郊でアシスタント・エンジニアやプロデューサーとして活動した後、プランクは1960年末にフリーランス・プロデューサーとしてのキャリアをスタートさせます。当初は、伝説のクラウトロック・バンド、クラスターとの仕事や、クラフトワークが1970年に発表した同名のデビュー・アルバムのレコーディングに参加しました。
技術的にも極めて優れた才能を持つプランクでしたが、彼はプロデューサーとしての役割を技術的なものに限定して考えてはいませんでした。あるインタビューでプランクは次のように説明しています。「プロデューサーの仕事―技術面以外の―は、私の理解では、恐怖心や遠慮が全くない雰囲気を作り出し、完全に純真かつ「無邪気」な瞬間を見つけ、適切なタイミングにボタンを押してそれを捉えることです。それだけですよ。それ以外は全て習得可能で、単なる技術に過ぎないのです」。それでも、プランクのプロデュース作品は、彼が楽器から引き出すサウンドの深遠さと鮮やかな音色で知られています。
1974年、プランクは、ケルン近郊の農家を改装し、自身のレコーディング・スタジオを開設します。ここで、クラフトワークの大ヒット・アルバム『アウトバーン』やウルトラヴォックスの『ヴィエナ』などの画期的な作品をプロデュースし、シンセ・サウンドの世界をとりいれるよう両バンドに促しました。彼にはシンプルな哲学がありました。「楽器のような音ではなく、シンセサイザーらしいサウンドを奏でるシンセサイザーが好きです」プランクはこう語ったと伝えられています。「ドラムマシンをエレクトロニック・ミュージックに用いるのは構いませんが、実際のドラマーのようなサウンドにしようとする場合はダメです」。その後数年にわたり、エコー&ザ・バニーマン、ユーリズミックス、ディーヴォ、さらにはブライアン・イーノまで、ジャーマン・プログレ、クラウトロック、アヴァンギャルド、その他限界を押し広げるレコードがプランクのスタジオから次々とリリースされました(ブライアン・イーノはのちにプランクをU2に紹介し、U2の次作アルバム『ヨシュア・トゥリー』のレコーディングの検討を打診。伝えられているところによると、プランクはバンドとの面会後「あのシンガーと仕事するのは無理」と語ったとのこと)。
独自性豊かなミュージシャンであったプランクは、南アメリカでのツアー中に病に倒れ、1987年に息を引き取りました。プランクは、驚くほど広範な音楽を残しました。彼の作品が、それ以降のプロデューサーの役割の基礎を築いたといってもよいでしょう。
エレクトロニックの壁を乗り越えたパトリック・カウリー
パトリック・カウリーは、サンフランシスコを拠点に活動したプロデューサー兼ミュージシャンで、作品発表の期間は短かったものの、音楽界に大きな影響を与えました。1971年、21歳のカウリーはニューヨーク州バッファローからカリフォルニアに移り住み、その後まもなく、サンフランシスコ・シティ・カレッジで利用可能なわずかなエレクトロニック・ミュージック機材を手に音楽活動を開始しました。ウェンディ・カルロスやジョルジオ・モロダーなどのアーティストにインスパイアされたカウリーは、学校の限られた機材を使用してElectronic Music Labをスタートさせ、シンセ要素と実際の楽器を実験的に組み合わせ、ハイブリッドな作品を生み出していきます。
カウリーは急速にシンセの達人としての名声を博するようになり、サンフランシスコのディスコ・アーティスト、シルヴェスターの目に止まることとなります。2人はパートナーシップを組み、『You Make Me Feel (Mighty Real)』や『Dance Disco Heat』などをヒットさせ、共にサンフランシスコのHi-NRG(ハイエナジー)サウンドのパイオニアとなりました。速いペースのリズムにスペースエイジなエレクトロニック・トーンが重ねられたこのサウンドには、リアルなサウンドとシンセ・サウンドの間の境界をぼやけさせ、それらをシームレスに組み合わせる手法を見つけるカウリーの才能が功を奏しています。一連のエレクトロニック・マシンと共に、カウリーは、パーカッシブなテープ・ループのコレクションをスタジオに所有していたと伝えられています。これらはドラム・サウンド(キック、スネア、シェイカーなど)およびBPM別に分類されており、異なるトラックで再利用できるようになっていて、今日のソフトウェアのほとんどに付属しているサンプルとループのライブラリの先駆けとなるものでした。
サンフランシスコのゲイ・カルチャー全盛期において憚ることなくホモセクシュアルであることを公言していたカウリーの音楽は、ゲイ・コミュニティで自身が体験した自由を享受したものでした(『Menergy』(男のエネルギー)といったストレートな曲タイトルもその現れです)。ソロ・アーティストとして、カウリーは自身のレーベルMegatone Recordsから独創性に富んだシングルを数枚リリースしており(ポール・パーカーのHi-NRGヒット『Right on Target』もそのひとつ)、1981年には自身の画期的なアルバム『Megatron Man』を発表しています。不幸にも、この作品のリリースから間もなく、カウリーは病に倒れます。彼は、米国のゲイ・コミュニティにまん延した、のちにAIDSとして知られる病で命を落としました。AIDSの流行という出来事は、音楽および文化に与えたゲイ・コミュニティの功績に影を落とすこととなり、パイオニアとしてのカウリーの過小評価にもつながりました。しかしここ数年、カウリーの作品保管庫(特に芸術的ポルノ・スタジオFox用のサウンドトラック)から新たに素材が発掘され、この先駆者のより実験的かつ冒険的な側面が露わになるにつれて、状況は変化してきています。結果論にはなりますが、いかにカウリーが時代を先取りしていたかが分かります。
今、私たちはどこにいるのか
前書きでも強調したように、この概要では、デジタル以前、ソフトウェア以前の時代のパイオニア全員を取り上げることは不可能です。サンプラーを使用するヒップホップ・プロデューサー、徐々にサウンドをマニピュレートしオートメーションを使用するようになったテクノ・アーティスト、リバーブやディレイをセオリーとは異なる方法で使用するスタジオ・エンジニア、これらの面々は皆、スタジオが音楽という芸術に不可欠な構成要素となるまでの進化に参加し、貢献しているのです。デビュー・アルバム『For You』で27もの楽器を演奏しエンジニアリングを行ったプリンス(彼の功績はこれだけではありませんが)のようなアーティストや、ナイル・ロジャースやブライアン・イーノのようなスーパー・プロデューサーも、この流れに計り知れないほど寄与しています。ヒップホップの立役者アフリカ・バンバータ、The Bomb Squad、J・ディラ、そしてテクノ界の第一人者ホワン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンにより定義された技術、サウンド、様式は、これまで以上に現在のポピュラー・ミュージックに顕著に表れており、これは彼らの音楽における創意がいかに先進的なものであったのかを示す証となっています。ここに紹介したアーティスト、そしてその他の優れたイノベーターを手本としながら、私たちはアーティスト、ミュージシャン、プロデューサーとして創造の独自の道を歩み、自己表現を行っているのです。
今では、数十年前のスタジオ1軒分と同等のパワーが、1台のラップトップに収まるようになりました。この利便性は見事ですが、こういったオーディオ・プログラムやプラットフォームは、約100年にわたる進化の最先端の一過程でしかないということは心得ておくべきでしょう。