Lea Bertucci:4次元を意識した作曲
Lea Bertucciは古びたカセットプレーヤーから流れ出す繊細なエレクトロニクスとフィールドレコーディングに乗せてサックスを吹く。 部屋は踊るようなきらめく音のパターンに満たされ、たえず動きがありつつも、それと同時に穏やかである様子は、微風に撫でられた湖面に反射する陽光や、夜明けの鳥たちが奏でるコーラスを思わせるような奇妙なものである。 Bertucciのセットアップと音色のパレットは1960年代のニューヨークを思わせるものであり、La Monte Youngからの影響を公言している彼女はたしかにその伝統に沿っているといえるだろう。 しかし、これがミニマリズムだとしても、Philip GlassやSteve Reichのような滑らかで精密なものではなく、YoungやMarian Zazeela(英語)による初期のドローン演奏や、Bertucciがもうひとりお気に入りのアーティストとして挙げている、Julius Eastman(英語)による熱狂的なマキシマル・ミニマリズムに近いものだと言える。 Bertucciの演奏がはじまってそう長い時間が経たないうちに、このライブが始まってどれくらい経過したのかという時間感覚を私は完全に失い、それから少しすると、時間そのものが揺らぎはじめ、まるでモーターが故障しかけたテープレコーダーのように、早くなったり遅くなったりするようになった。 私が感じたこの感覚をBertucciに伝えると、彼女はまるで自身が処方した薬の典型的な副作用について話を聞かされた医師ような表情でうなずく。 「わたしの音楽のなかには、ちゃんとしたビートというものは存在しないの」と彼女は説明する。「それに、いわゆるコード進行やメロディーなども存在しない。 わたしの音楽には、たしかに人の時間感覚を大いに狂わせる力が秘められていると思う」
昨今のBertucciは“4次元での作曲”に没頭しているが、この音楽制作の領域は彼女自身がでっちあげたものだと認めている。 「4次元での作曲というのは実際に存在するものじゃない」と言う。 しかし、時間と空間の両方を考慮しながら演奏を作曲をおこない、音楽的な出来事が起きる順序だけでなく、音楽が飛びかう空間の高さや広がり、深さを聴衆に考えさせようとする彼女の総体的なアプローチを表現するには、“4次元での作曲”はふさわしい言葉といえる。 Bertucciがとりわけ魅了されているのは、音楽/建築/人間の知覚の関係であり、空間における音の動き、リスナーの位置がもたらす音の伝達への影響、そして彼女が言うところの音楽的知覚における主観性だ。そして、この一体化された訓練に対する献身がニューヨーク州北部の地底湖や、ストックホルムの原子力発電所など、異例の場所での演奏や作曲を具現化したいっぽうで、訓練の背後にある思想もまた日々の音楽の実践にとって有用な骨格をなしているのだ。 アレンジメントビューからはじめたり、譜面に音符を書きこんだり、あるいはPushやMPCのパッドを叩いてビーツを組んだりと、作曲の出発点がどのようなものであろうと、Alvin Lucierの言葉を借りるならば、音楽を制作する人々はひとつの部屋のなかで座っているのであり、Virginia Woolfの長編エッセイが思いおこさせてくれるように、部屋にはさまざまな形状とサイズがある。
“ひとりの女性が部屋に入るとき、そこで起きていることを語る前に、言語としての英語の本領はたいそうな試練にさらされ、一連の言葉全体は非論理的に飛躍したうえで現出されなければなりません。 静かであったり騒々しかったり、海に面して開けていたり、それとは対照的に刑務所に面していたり、洗濯物が吊るされていたり、オパールや絹で生き生きと飾られていたり、馬の毛のように硬かったり、はたまた羽毛のように柔らかかったりと、部屋というものはそれぞれことごとく異なっています…”(Virginia Woolf『A Room of One's Own』1929年)
同様に、21世紀の作曲家であるBertucciも、録音あるいはリハーサルをおこなうさまざまな空間やヨーロッパでの中規模なソロツアー中に彼女が遭遇する演奏空間を説明しようとすれば、あっというまにみずからの語彙を使いはたしてしまうことになる。 演奏空間は箱型または洞窟状で、素晴らしい音響特性に恵まれていることもあれば、手におえない残響や奇妙な反響に悩まされることもある。 このように、じつにさまざまな演奏会場の建築様式が最初のきっかけとなり、Bertucciは空間を作曲の一要素として考えはじめた。 「わたしが音楽制作のこのような(空間性を意識した)側面に興味を持ったきっかけのひとつは、大きく異なる音響条件をもつ多様な会場でツアーや演奏をして、自分の音がまるっきり変わってしまうのを体験してきたから。 だから、ツアーでの実践をつうじて培ったようなものね。 この考え方を取り入れたなら、きっと楽器への取りくみ方も変わるだろうと直感的に認識した。たとえば、どんな種類の音符に自分自身が心を惹かれるかといった点ね。 空間や音響特性は、わたしの演奏にかなり直接的な影響を与える」
プロモーターが彼女にレモンを与えれば、彼女はレモネードを作った。 やがて、Bertucciはプロセスを逆転させ、みずからの演奏と作曲を新たな方向性へと推しすすめるために彼女が呼ぶところの「極端な環境」を意識的に探求するようになった。 Loop 2018において、Bertucciは自身の最も野心的なライブについての講演をおこなった。そのライブとは、ケルン市内のライン川に架かる全長437mの単スパン構造のコンクリート橋梁、ドイッツァー橋の内部にある空洞部分で現地制作された作曲の演奏だった。 この作品はドイッツァー橋内部に集められた演奏家たちのために制作され、彼らの演奏と並行してBertucciはその音の断片を取りこみ、再度ミックスに還元させた。 そのあいだ、演奏者と聴衆はともに動きつづけているのだが、この動きもまた作品の一部となっていた。橋の内部の音響特性は、ほんの小さな足音やわずかなすり足でさえ、かなり大きく響きわたるものだったのだ。 「ドイッツァー橋の内部はものすごく極端な音響特性で、音が減衰するまで約14秒かかり、反響やディレイ、音響陰影にいたるまでさまざまな興味深い現象が存在していた。 そこで、わたしはこのような特徴を利用した作品を書こうと考えたの」
作品を作曲し具現化する過程について彼女の説明を聞いていると、楽しくも混乱した世界へと入りこんでいくような感覚になる。その世界には、手におえない残響や頭上でけたたましい騒音を立てる路面電車、フィードバックなど、普通であれば演奏者やサウンドエンジニアたちが排除しようとする要素に満ちているのだが、これこそがまさにBertucciの作品を形成しているのだ。 たとえば、橋梁内のルームトーン(空間が共鳴してフィードバックを引きおこす支配的な周波数)は作曲や演奏を制限するものではなく、あくまで作品全体の基礎となった。 ドイッツァー橋内部での作曲過程について、Bertucciは次のように説明する。「サイン波を低周波から高周波まで立ちあげてみて、その録音の分析をもとにルームトーンとなる周波数を決め、これを作曲の基本的な音程として使う。 これを倍音の基礎にして、そこからどんなハーモニーが考えられるか検討していく」
プラグインやYouTubeの映像に合わせてチューニングをおこなう場合、おそらく平均律でのチューニングとなる。平均律では音程が均等な周波数比で分割されて12音の西洋音階となり、A=440hzとなる。 ところが、500mの奥行きがあるコンクリート製橋梁の内部空間に合わせてチューニングする場合、平均律をはじめとする人類の編みだした音律が通用しない物理特性や空気分子に対処することになる。 このような関係は数学的な意味ではより純粋といえるが、人々は平均律に馴らされすぎているがゆえに「音が外れている」と感じる場合も少なくない。 Bertucci自身も、これが理由となって自身の作品がしばしば調性に欠けるものとして受け止められてしまうことを認めているが、彼女はけして悩みには感じないという。彼女にとって、定型から外れた作曲はたんなる個人的な好みの問題にとどまらない、規範の必然的な破壊でもあるのだ。
ルームトーンや環境音をともなう作曲作業によって彼女のノイズとの関係性に変化があったのかと尋ねてみると、Bertucciは「とくに大きな変化はない」と答え、自身とノイズとの関係性は常に良好なものでありつづけてきたとしている。 「自分のことはノイズアーティストだと思っている」と彼女は語る。 実のところ、彼女が9歳のときから演奏しているサックスとは違い、バスクラリネットはノイズを作るためのツールとして接することができるのではないかと考えて使いはじめたのだという。 「わたしのルーツは実験的でアンダーグラウンドなノイズシーンにある。 だから、ノイズや偶発的な音は人々に問いかけ、人々が許容できる境界値に疑問符を投げかけるためのすごく強力なツールだと思っている。日常の雑音にまみれた環境に合わせてチューニングするという行為は、人々と世界の関係性を再定義することであり、あらゆる場所に存在する音を再考することでもあるの」と彼女は主張する。
ドイッツァー橋の内部でのアンサンブルの指揮、小さなクラブでのサックスを使った即興演奏、あるいは自宅の窓辺での鳥のさえずりのフィールドレコーディングなどを問わず、Bertucciのあらゆる活動の中心にはこの再定義と再考の過程が存在する。Bertucciはみずからを取りまく音環境に注意深く耳を傾け、そこに付加できるものがないか入念に思考をめぐらせる。 彼女は自身の作品を表現する際、‘サイト・レスポンシブ(site-responsive:作品とそのパフォーマンス空間が呼応していること)’ という表現を好んで用いるいっぽう、より一般的に聞かれる言葉である ‘サイト・スペシフィック(site-specific:作品とそのパフォーマンス空間が同一化されていること)’とはっきり区別するよう留意しているが、彼女自身この混同に悩まされているという。 「 ‘サイト・スペシフィック’については文句を言いたいことがたくさんあるわ!」と言って彼女は笑い、 「これはRobert SmithsonとNancy Holtが考案した言葉で、極初期のアースワーク(ランドアート)を手がけていた芸術家たちはその設置場所に依存した作品を制作していた。 わたしの作品においては、サイト・スペシフィックとサイト・レスポンシブは明確に区別したいと思っているわ。 なぜなら、場所という文脈の外側に持ちだせば、サイト・スペシフィックな作品は理解されなくなってしまうから」と続ける。Bertucci自身も過去には『Cephaid Variations』や『Double Bass Crossfade』などサイト・スペシフィック的な作品を発表しているが、正確に言えばこの作品群は演奏された場所があってこそ存在しえたものだったのだと彼女は主張する。 「実質的には、その作品は非常に短い期間しか存在できないということになるわ。 Dia Art Foundation(ディア美術財団)がこれから一生にわたって資金を提供してくれるというなら話は別だけれど!」
1970年代に潤沢なオイルマネーをLa Monte Young、Walter de Maria 、Donald Juddらのプロジェクトに注ぎこんだDia Art Foundationを引き合いにしたBertucciの痛烈な皮肉は、現代のアート界の背後にある経済的な実情を再認識させる。 2020年の現代、よほどの財産か幸運の持ち主を別にすれば、いったい誰がどこでも(Betucciが住むニューヨークはいうまでもなく)思いのままにサイト・スペシフィック的な作品を作れる資金を持っているというのだろう? 賃借料があまりに高騰してしまった今となっては、誰もいないはずだ。 アメリカの脱工業化した都市には無人となり廃棄された建築空間が点在しているとはいうものの、かならずしも自由に侵入してブラスの八重奏を計画していいというわけではない。しかしながら、Bertucciはこのような場所への不法侵入を何度か試みている。 「わたしは不法侵入で厄介なことになった経験があるわ」と彼女は打ちあける。
だが、仮にサイト・スペシフィック的な作品を作るだけの資金がないのだとしたら、サイト・レスポンシブ的にならずにはいられないはずだ。どのみちこれは不可避なのだ。 著名ロックプロデューサーである Sylvia Massyが著した書籍『Recording Unhinged』のなかで、ベッドルームプロデューサーたちに対して、良いスタジオを持とうとすることばかりにうつつを抜かしてはならないと忠告し、次のように記している。 「運がよければ、おそらくどんな場所でも録音に適した場所になります。 録音する環境そのものがエフェクトやもうひとつの楽器になるというわけです。 空間を活用しましょう。その環境は実在するものであり、生きているのです!」また、ロンドンでTotal Refreshment Centerというレコーディングスタジオを長年運営してきたプロデューサーのKristian Craig Robinsonは、自身のスタジオが入居する建物の荒っぽい造りや、その都市的な音響特性がスタジオの個性を決定づける不可欠な部分になっていると主張する。 Emma Warrenとのインタビューのなかで、彼は次のように語っている。「森の中にあるレコーディングスタジオってやつはどうしても気にくわないのさ。 俺のスタジオはコンクリート造りで、ハックニーにあって鉄骨で組まれている。だからいかにもロンドンらしい音になるんだ」静かであろうと騒音だらけであろうと、また羽毛のように柔らかであろうと馬の毛のように硬かろうと、録音物やショーはその場所の「記録」でもあるのだ。人々が考える以上に、空間の高さや奥行き、広がりは時間の経過とともにその作品内の音の動きに寄与している。 4次元での作曲というのは、あくまでもLea Bertucciがでっちあげたものなのかもしれない。それでも、これは実在しているのだ。