外の音:フィールドレコーディングの流儀
昨年11月にベルリンで開催されたイベント、Loopにおける基本的なテーマの一つは、プロデューサーたちが周囲の環境にある音をどのように取り入れているかを検証することでした ー Holly Herndonのインターネットにインスパイアされたデジタル・ユートピアや、Matthew Herbertが提示した音楽的マニフェストにまつわる議論、AGFによるフィールド・レコーディングのワークショップなどです。
広義に解釈すれば、「フィールド・レコーディング」はスタジオという制御された範囲外の音を捉えるプロセスのことを指します。しかしこの定義内には、様々なプロセスの違い、理論的アプローチ、及び結果が含まれています。Pierre Schaefferが牽引した1940年代のミュジーク・コンクレート運動から、”エキゾチック”の表出としての民族音楽学的録音物、環境音の記録、そして自然のサウンドスケープを音楽として扱うものまで ーこの用語には幅広い見地が含まれ、またそれが度々議論となってきました。これらの要素に共通するのは、私たちには色んな方法でこの世界を聴いているということと、それには数々の美学、政治的・社会的考察が関わっているということです。
今日、フィールド・レコーディングの人気が高まっているのは、オーディエンス側はより多様なリスニング体験を求め、アーティストたちも作曲のツールとしてその音源を環境に求めているからでしょう。手頃な音楽テクノロジーにより、録音プロセスはより手軽に、そしてその音を無限に操作することが可能になったからこそ ー これほど幅広いエレクトロニック及びポップ・ミュージックでこのアプローチが取り入れられるようになったと理解出来ます。プロセス及び実践として、フィールド・レコーディングは自然史、エコ・アクティヴィズム、ズーミュージコロジー(最近発表された興味深い本とCDで紹介されている、人間以外の動物によって作られる音楽についての学問)などの領域を網羅します。この記事では、これらの中のいくつかの要素に触れ、さらにこの分野を先導するアーティストであるChris Watson とYannick Daubyに話を聞きました。
Loopにて、フィールドに出ること
高く評価されてるプロデューサーであり、分野横断的なアーティストであるAGF (Antye Greie-Ripatti) は、Loopでのワークショップにおいてこれらの多くのテーマに触れてくれました。彼女自身のミュージシャンとしての実感に基づき、あらかじめ録音されたサンプルに対する興味が薄れてきたことに伴い、周囲の環境の音を捉えることがいかに彼女のクリエイティブ・プロセスにおいて不可欠になったかを紹介してくれました。彼女の自然環境に対する愛情とテクノロジーに対する情熱を統合するため、AGFはパートナー(同じくエレクトロニック・パイオニアであるVladislav Delay)と共にフィンランドのハイルオト島に移住し、彼女はそこで自然の中にある音とよりダイレクトに関わるようになりました。現在彼女は、シンセやサンプラーを人里離れた場所に運び、そこで環境を重要な制作原動力としてレコーディングや作曲を行っています。Loopの彼女のワークショップでは、参加者はベルリン市内を歩き回って音を集め、それらをスタジオに持ち帰って作曲の構成要素として使用するよう指示されました。
AGFの作品に対するアプローチと、彼女が指導したワークショップのやり方は、フィールド・レコーディングの分野に分けられますが、録音された音を操作した上で、録音がなされた環境外からの楽器やプロセスを加えるというものでした。この分野の実践者たちの一部はこれまで、より記録としての性質が高い ー 「本物の」経験をなるべくそのまま捉える、あるいはオーストラリアのサウンド・アーティストLawrence Englishの音葉を借りれば「客観性を伝えることが可能なメカニズム」というアプローチを取ってきました。そしてこのことは、この分野での考え方を二分する中心的な論点とされてきました。
今日、鍵となるリリースやシーンにおいて活動的なアーティストたちがこの両方の考え方 ー 環境録音の、ドキュメンタリー的側面と芸術的試み ー と関わっていることは明らかであり、両者の境界線が薄れつつあることも事実です。 Bernie Krause、Hildegard Westerkamp、Chris Watsonといった録音者たちは皆、アヴァンギャルドとの繋がりがある一方で、彼らの一連の作品は環境的なサウンドスケープや生態学的なドキュメンタリーと並行する部分もあります。AGFも強調していたように、Cabaret VoltaireやHafler Trioといったエレクトロニック・ミュージックの実験的バンドの元メンバーであるChris Watsonは、芸術表現としてのフィールド・レコーディングにおいて主導者の一人と言えるでしょう。
記録 vs. 作曲
Chris Watsonの作品には映画やテレビ向けの自然史ドキュメンタリーが含まれており、アーティストとしての彼は、初期のドキュメンタリー作品から、より編集・加工された映画的な物語へと発展していきました ー そして例えば溶解する氷河の中や深海といった、実際に耳を当てて聴くことは不可能な生息環境やロケーションの音などを捉えています。
Watsonの説明によれば:
「(私のアプローチの)方向性は、少し拡大し変化しました。初期の作品を、純粋な記録物だと考えていたいたわけではありません。それらはそのままで成立し、それ以上の改良の余地はないと考えていたのです。あるい意味、音を記録するという工程を通して得たものを、そのままで完璧な”作曲”だと捉えていました。その後、録音のテクニックを変えたことをきっかけに、それまで聴こえていなかった、あるいは価値を置いていなかった個別の部分に耳が行くようになり、それらが人間による作曲テクニックとは一線を画すものであることに気づきました。それからはこうした部分を扱うことに興味を持つようになり、『Outside the Circle of Fire』のようなアルバムは、マイク・テクニックをそのまま作曲技術として作り上げたものです。いわばそれが主な楽器であり、『Stepping into the Dark』のように雰囲気を重視した、よりアンビエントな空間の録音を主とした作品とは違うものに仕上がりました。」
「十代の頃、私はミュジーク・コンクレートに興味を持ち、当時Karlheinz Stockhausen、Olivier Messiaen、Pierre Schaefferといった現代音楽の作曲家たちに魅了されました... その影響により、私の耳に聴こえていたものは音楽として捉えることが可能で、スタジオで何かと作ろうとするよりもずっと有効なツールとして作曲に使用出来ると気づいたのです。」
客観的な事実性の提示という見解は、年を追うごとに大幅に解体され、録音技術そのものとマイクの配置、いつ録音を開始していつ止めるか、といったことは各作品の芸術的介入を示唆する作曲的な判断であると考えられるようになりました。FACT Magazineに掲載された啓発的な記事の中で、Lawrence Englishは中国のサウンド・アーティストYan Junとの対話を紹介しています:
「事実性を記録することなど出来ません。記録することと創造することに区別はないのです。かといって私はフィールド・レコーディングや電子楽器やコンピューターで夢を描いているわけでもありません。楽器を選ぶこと、配置を決めること、録音ボタンを押すこと、その全てが作曲行為なのです。」
この考え方は台湾を拠点とするフランス人アーティストで、フィールド・レコーディングとシンセサイザーによる即興演奏を融合して作品を制作している、Yannick Daubyとも一致します。
「私が屋外で録音している際も、スタジオ内でサウンド編集している際も、最終的に私の耳に聴こえているのは変換された信号 ー ラウドスピーカーなりヘッドフォンなりから出てくる電波です。私が関わる音には全て音響技術が介在している。つまり、私が”純粋”な音を扱っているとは言えないわけで、それらは何らかの媒体の中にあるものです。ですから、私はプロジェクトによってサウンドに関する二つの究極の考え方、記録と抽象の間を行き来しているのです。」
「ときどき、コミュニティや自然環境の記録を目的とした仕事を依頼されることがありますが、私は自分の知覚で捉えたそれらのサウンドを最良の形にフィールド・レコーディングするよう努力します。フィールドにおける判断(マイクの選択、どこでいつ録音するか)、素材のセレクション、それにどんなに細くてもイコライゼーションや雑音と判断した音の排除といった変化を加えることは、録音された元のシグナルを変更する重大な選択です。そこには中立(あるいは純粋)な記録などというものは存在せず、常に知覚、主観、再構築された事実でしかあり得ません。」
このような考え方は比較的新しいという点、またフィールド・レコーディングの歴史はこれまで録音者、例えば民族音楽学の調査旅行のパイオニアとされるHugh Traceyや、60〜70年代に量産された『Sounds of the Serengeti』(セレンゲティ国立公園に生息する動物の鳴き声などを収めたレコード)スタイルのLPを、アーカイヴ/記録と考える強い傾向があったことは興味深い事実です。Lawrence Englishは”デジタル時代、及び旅行の機会によってありとあらゆるものに豊富なアクセスが可能になった”ことを挙げ、それがこのような大抵の人が日常的に触れることのない音の録音を、不必要なもの、時にはヨーロッパ中心的な世界観に基づいた”他者”のエキゾチック化という ー 文化的に”有害”なものになり得ると指摘しています。この帰結として、Lawrenceは”焦点を定め直し、時には当たり前の体験を深く挑発的なリスニングに変えるような、新たな知見と露出の模索”を提案しています。
「機能する」フィールド・レコーディングとは?
明らかなことは、魅力的な作品を生み出すには自然の中を彷徨って録音ボタンを押すだけでなく、相当量のプロデュース作業が必要になるということですが、これについてはYannick DaubとChris Watsonがどのように彼らの録音やリリースの”成功”と”価値”を判断しているかを参考にすることが出来るでしょう。こうしたサウンド・コラージュを聴くに当たっての指標となるパラメーターや枠組みは、その音楽や録音された音と私たち自身の関係性とは異なる、別の条件が適用されます。Watsonの説明によれば:
「私はその音の録音者なので、ロケーションやどのような状況で録音されたかを覚えています。 これは抽出の手法というか、自分の覚えていることを作り出そうとする方法で、記憶効果のようなものです。私が思い出した記憶や、その場所のフィーリングやスピリットを元にして再構築したものがコンポジションとなります。ある意味、これはとても伝統的な作曲方法です。Sibelius(ジャン・シベリウス)はフィンランドの森をインスピレーションとしていたし、Messiaen(オリバー・メシアン)はフランスの鳥のさえずりでした。ですからこれはよく踏みならされた道で、私がとりわけ魅了されているのは、外に出かけて行って録音する行為そのものが好きなことと、その場所を描写する有効な方法だからです。ですから、このプロセスは直感的なものですが、インスピレーションはその場所における自分の録音物なのです。音の素晴らしいところは、記憶を呼び覚ますところ。録音の経験のある方なら、それを聴いた瞬間に、その時と場所に立ち返ることが出来ますよね。人間には音に結びついた強い記憶力があります。私は自分の仕事にそれを生かしているのです。」
Yannick Daubyもまた、自らのプロセスを記憶と場所と関わることであるとしていますが、さらにそこに潜在的な政治的側面を見出しています:
「私はいつもフィールド・レコーディングでは謙虚な姿勢を忘れないようにしています。私はたまたま特定の状況において、音の痕跡を抽出しようとする。そこでの私の役割は積極的なリスナーであり、この一定のリスニング体験を元に何かを作り出すことです。何の判断や意見も介在させずに聴くことは、政治的命題になり得ます。ちょっとした留意が変化をもたらすことがある。環境、絶滅品種、脅かされているエコシステム、あるいは消滅寸前の文化的実践の音を提示し共有することは、当然オーディエンスに何らかの影響を与えますが、さらに多くの場合はその音のコンテクストを提供し、物語を伝えることで、リスニングを通じた議論や省察を促すことが出来ます。このことは、作曲とは無関係でない作業です。」
Watsonは録音したものの、幅広いオーディエンスに伝わるような作品にすることが出来なかった素材が何千時間分もあるといいます。他方で、彼の最も評価されている作品の一つである『El Tren Fantasma』は、メキシコを横断する5週間の電車の旅で録音されたものですが、多くの人々を惹きつけました。
「鉄道の鼓動は心拍に似ていて、私たち誰もが生まれる前に聴いていた音の一つだと思うのです。私たちは母親の胎内で16週間ほど経た頃に耳が聴こえるようになり、音の世界に触れますが、それは羊水を通って拡散されたものです。これは私の持論ですが、私たちが鉄道の音を心地よく感じるのは心臓の鼓動を思い起こさせるからではないでしょうか。」
「私の作品の基本にあるのはその場所に出かけて行ったときの興奮を再現することで、実世界で聴いた音を、そこから戻った後に他の人にも共感できるような形にして提示することです。それが音のいいところです。大げさな芸術的正当化を必要としない。人々は音をとてもダイレクトに受け止めます。極めてユニークな入り込み方で、私たちの心と想像に働きかけてくるのです。」
アニマル・ミュージック
最近リリースされた『Animal Music』の書籍とCD(Tobias Fischer & Lara Cory編)は、動物たちの王国と人間の音楽性の知覚との関係を検証しています。Francisco Lopez、Yannick Dauby、Jez Riley Frenchらによって集められた、世界各地からの一連の録音は私たちに動物の精神性と美意識について考えさせてくれます。鳥の鳴き声は単に性的なステータス、捕食者の警告、餌の供給などを知らせる記号に過ぎないのか?それとも、生物学的な必要性を超えた何かの表現である要素があるのか?鳥類学者たちは、同じ種でも場所によってアクセント、リズム、音の分類が変化することを観測しており、鳥の鳴き声にも文化的な要因があるかもしれないことを示唆しています。同じことはイルカやクジラなどの海洋動物の観察においても確認されています。
もしこれが本当だとすれば、これは私たちと動物世界との関わりにおいてどんな意味を持つのか、結果として動物とのコミュニケーションが可能になるのか?しかし、Chris Watsonはこれを興味深くも最終的には無益な探求であると一蹴します。
「David Rothenbergのような人たちがやっていることは興味深いとは思いますが、これらの動物たちが存在している周波数領域と動力学を考慮すると動物とコミュニケーションを取ることはは困難でしょう。動物たちは人類よりも長く地球上に存在していますから、私たちよりもずっと高度なコミュニケーション技術を発展させています。私たちは動物に情報を発信し、また受け取ることは出来るかもしれないですが、動物たちと効果的なコミュニケーションを図れると考えるのは行き過ぎでしょう。私はこれをかなり危険な考えだと思います。もし私たちが虫の会話を理解できたら、どんな世界になるか想像出来ますか?人間同士でさえ理解に苦しんでいるというのに、ほかの種を理解しようとすることにどんな未来があるでしょうか?」
「人間は、動物世界のトップであるという極めて思い上がった見解を持っています。それは明らかな間違いです。私たちに動物世界のコミュニケーション感覚を理解することは出来ません。私たちが感知出来るひどく制限された周波数内において、首を突っ込んでみることは出来るかもしれませんが、理解からは程遠いでしょう。」
実践的問題
主観的な芸術表現としてのフィールド・レコーディングは、録音機材の技術的発展と密接に関わっています。40〜50年代の録音遠征旅行は、巨大で扱いの面倒な機材で、世界各地の”辺鄙な音”を捉えるという民族音楽学的な”ドキュメンタリー"スタイルの研究として行われていました。極めて持ち運びの容易な、比較的手頃な値段の機材が開発されたことにより、この分野に幅広い人々の参加と、それまでアクセス不能だったオーディオ世界の探索が可能になりました。インターネット上にはいくつかの参考になるサイトがあり、様々な録音テクニックやそのための推奨機材が紹介されています。
Chris Watsonからもいくつかの実践的なヒントがあります。「当然のことながら、その環境に備えなければなりません... なぜなら、寒くてびしょ濡れで心地が悪ければ録音は出来ないからです。私が最も心がけていることの一つは、マイクから離れること、自分自身とマイクの間に十分なスペースを設けることです。自分でマイクを手に持って録音することが極めて少ないのは、野生生物を対象とする場合、それでは何も寄り付かないからです。私の関心は通常では耳を当てることがないようなところにマイクを設置することなので、茂みの中や棘だらけの茂みの中に置いてみたりします。録音環境において、自分の居心地の良さを確保するようにして下さい。もし午前3:30に出かけていくなら、暗闇でも機材が扱えるようにしておくこと。手袋をはめたままでも操作できる機材を揃えましょう。どれも実践的なことですが、私は変わったものを捉えたいならなるべくマイクから離れることが最も有益な方法だと思います。」